close

人生の中で、これまで様々なことに対して情熱を燃やしてきたが、音楽は最初の対象だったように思う。『其實,我的人生目標是連貫的』でも書いたが、小さい頃から音楽は私にとってコミュニケーションの言語であり、ピアノは気心の知れた友人であった。

ピアノというのはメーカーや型によって鍵盤のタッチ、音の響きが異なり、人間関係でも好き嫌いがあるように、ピアノも人によって好みが違う。また、同じメーカーでも製造した年代によって若干違いがあるようで、中古ピアノに至っては長年弾いていた人の癖や保管状態によって、良くも悪くもかなり差が出てくる。

 

母がピアノを弾くので、生まれたときから家にはピアノがあった。ドイツ製のジャズ演奏に適したアップライトのピアノであったと聞いている。小さい頃から母がピアノを弾く姿を見ていたせいか、4-5歳になると見よう見まねで楽譜を目の前に置き、じゃかじゃか鍵盤を鳴らしながら、弾いてはページをめくっていたという。

本格的にピアノを習いだした6歳のころ、元のピアノの鍵盤が重くて子供には適さないことと、「どうせなら一生付き合えるピアノを」という母の強い思いから、母はアップライトを手放し、なけなしの貯金をつぎ込んで当時のヤマハのグランドピアノ3号を購入した。私は覚えていないのだが、購入に際しては店頭でアップライト、ミニグランド、3号のグランドを私に弾かせた結果、生意気にも「これがいい」と3号のグランドピアノを選んだらしい。このとき思い切って購入してくれた母には今でも感謝している。

このピアノはその後、どこに行くにも手放すことなく、ずっと連れ添うことになる。今は台湾で一人、ワンルームを借りているのでさすがにピアノは置けないが、日本の家に帰ると毎日欠かさず弾くほどの、大事な古友である。

piano@home

 さて、好みのピアノの話だが、やはり長年連れ添ったピアノに慣れているせいか、それに近い音やタッチに親しみを感じる。軽やかで丸みのある音、重すぎず軽すぎないタッチ、言ってみれば小指の先ほどの丸い真珠がコロコロと転がっていくようなイメージである。あくまでも個人的な感想だし、全てのピアノを弾いたことがある訳ではないので一般的なことは言えないが、これまで出会ったアップライトだと繊細な表現には物足りないことが多く、とくにペダルをふんだんに使う曲の場合はやはりグランドピアノの方が表現しやすい気がするので、ピアノを借りて練習するときでも出来るだけグランドピアノを借りるようにしている。

 ヤマハのピアノ以外では、まあミーハーなのだが、華やかな音色のスタンウェイならショパンを弾きたくなるし、バッハを弾くならベーゼンドルファーの生真面目でどっしりした響きがお似合いだと思う。カワイが過去に老舗のスタンウェイと共同開発したグランドピアノ(Boston Piano)を中古ピアノ店で見つけたときには、その力強い音色に惹かれ、大好きなベートーベンの曲をいつまでも弾いていたい衝動に駆られたものだ。いつか自分のためにピアノを買う機会があるとしたら、そんなピアノとまた巡り合いたい。

 

 好きな作曲家と言えば、断然ベートーベンの曲と波長が合う。小さい頃は誰の曲かあまり気にして弾いていなかったが、気付けば好きな曲はほとんどベートーベンだったりする。私にとってベートーベンの曲は、当たり前に心臓が脈打ち、肺が呼吸を繰り返すように、曲の一つ一つの音が当たり前にそこにあると感じる。一音でも今あるその音と違ってしまったら違和感が生じるほど、この音の次にはその音がこなければしっくりこないとさえ思う。そのせいか、とくにベートーベンの曲は何度も弾いているうちに自然と指と耳が音を覚えるので、気付けば暗譜していたりする。それどころか、無心の時ほど強弱のつけ方まですらすらと弾けたりする。

 『熱情』の第一楽章は一番のお気に入りで、メロディから強弱のつけ方まで、自分という人間にここまで寄り添ってくる曲は他にない。人によって曲の解釈の仕方は様々なので色んなバージョンの熱情があると思うが、私にとってピアニッシモはどこまでも優しく繊細で、クレッシェンドは心の叫びを表すかのように熱く(厚く)、でも決してキンキンとうるさく響かせることなく、どっしりと重い。曲と共に身体の奥からは力強いエネルギーがほとばしり、自分が自分ではなく何かの一部になったような、幸せな恍惚感に浸れる。

 

 ピアノが好き。ベートーベンが好き。どんなに好きかを表現しても、言葉では足りない。

arrow
arrow
    創作者介紹
    創作者 自由譯者阿花 的頭像
    自由譯者阿花

    阿花的口譯翻譯夢想與生活

    自由譯者阿花 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()